東日本大震災9年6カ月 あの日の記憶 次代へ

今日9月11日は、東日本大震災から9年6カ月。宮城県気仙沼市の離島・大島は、3.11の大津波で定期便フェリーが全て流出し、島は一時孤立しました。その間、人々を運び続けたのが臨時船「ひまわり」でした。昨年4月、大島と本土を結ぶ橋が開通し運航を終えましたが、今夏、陸揚げされ保存されることになりました。震災当時からの縁で、公明新聞でのインタビューが掲載されましたので、紹介します。

津波乗り越えて島民の命 つなぐ

大島の漁師町を裏に入ると、屋根瓦の合間に白い船が浮かんでいます。その船は臨時船「ひまわり」。昨年4月まで大島と気仙沼港(約7キロ)を結んでいました。元船長の菅原進さん(78)は誇らしげに眺めていました。

臨時船の運航開始は1970年。当時、本土を往来するフェリーは便数が少なく、最終は午後6時30分。菅原さんが「島の人たちが便利になれば」と、夜間の臨時便としてスタートしました。急病人や妊婦を気仙沼の病院へと運んだり、早朝も深夜もなく島民の要望に応えて走り続けました。


2011年3月11日午後2時46分。「ゴォーッ」というすさまじい地鳴りの後、激しい揺れで地面が波打った。その時、自宅にいた菅原さんは「津波が来る」と直感しました。

「船がやられたら島のみんなが困る」。菅原さんは迷わず港に向かい「ひまわり」に飛び乗った。中学卒業後、遠洋マグロ漁船で世界の海を駆け巡った経験がある菅原さん。「津波が来た時は船を沖に出す」との漁師の言い伝えを即実行に移した。「よし、ひまわり!行くぞ!」。ぐっと奥歯をかみしめ、決死の覚悟で迫り来る数十メートルの黒い壁に立ち向かった。気づけば、4回の大波を奇跡的に乗り越えていました。

家族は全員無事でしたが、自宅は津波で水没。港はがれきで埋まり、フェリーも壊滅状態でした。島民の唯一の交通手段は「ひまわり」だけとなりました。

発災から2日後、菅原さんは「ひまわり」の運航を再開。フェリーが復旧するまでの8カ月間、無償で島民やボランティア、救援物資を運び続けました。この活躍は、小学6年生の道徳の副読本にも紹介されています。

菅原 「船残して」少年の願いかなえる

津波の脅威、命の大切さ心の中に
〈気仙沼と大島に「ひまわり」という船と船長の名前を残してください〉
3年前、届けられた一通の手紙に菅原さんは胸を熱くしました。「この少年の願いを必ずかなえてみせる」と心に固く誓いました。

17年12月には、島民有志らで「臨時船『ひまわり』を保存する会」を結成。昨年4月に気仙沼大島大橋の開通で運航を終了しましたが、「ひまわり」の活躍を知る全国の人々から寄付金が集まりました。今年8月、船体が陸揚げされ、菅原さんの自宅敷地内に保存。年内の一般見学をめざし、船体を屋根で覆い、手すりを付ける計画で準備を進めています。

11年3月19日未明――。当時幹事長だった私は気仙沼市に入り、大島を訪れました。その際、「ひまわり」に乗船し、菅原さんから小型船の夜間運航の認可、乗船の定員緩和など要望を受け、実現。「ひまわり」の保存にも尽力しました。

私は5日、菅原さんを訪問。菅原さんは「島民や全国の応援のおかげで船が残せた。震災の出来事を伝える場として整備します」と決意を述べました。

私は、菅原さんの奮闘をたたえ、「遺構がある限り、震災の脅威や命の大切さが次代へと伝わり、心の中に残り続ける。物語を語り継ぎ、『ひまわり』の花を咲かせてほしい」と期待を寄せました。

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